昭和50年11月23日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すれば誰れでも受けることができる。みてる「尽きる」ということがない。」

 私はこの御理解は、誰でも受ける事ができると言われるけど実際は、本当に御神徳を受けて居られるなと言われる様な方たちはごく少ない。けれども教祖様が嘘を仰っておられる筈はないのだから、結局こちらが神徳をうけれる信心を教えて下さっているにも係らずそれを守ったり実行したりしないから、受けられないのだと。実をいうたら受けようという気になったら誰でも受けれるのだ。所が実際それを本当に御神徳を受けて、あの世にも持って行かれこの世にも残しておけると言った様な人が極く稀であると。
 だから例えば、これは高嶺の花であって、とても私どんじゃ頂けんと高をくくっておるとこう言う事になる。例えば昨日の御理解を頂いておりますとそうではない。昨日の御理解を頂いとっても、今ここで昨日でもう3日ですか。毎朝の御理解をここの先生方が四時半から、いや三時半から四時までそして御祈念をさして頂くまで、今日の御理解をどう頂いたかと言う事を、文章にそれぞれが致しております。そして今日の大体頂きどころと言うのはどこかというふうに。
 私がここで聞かせて頂く、そして私も改めてまた朝の日々の御理解が、分らない所が判らして貰うし、又皆も頂きどころが違うておる所は、はぁここだと言う事になるのですけどね。これは三日間続けてですが、私が此処を今日の御理解を判って貰いたいと言う所は、誰も分っとらんのに驚きます。けど御理解というものは不思議なものですから、例えば十人が十色どこを頂いとってもよいです実際は、おかげを受ける事においては。頭の所を有り難いと思うたらそれでおかげを頂くし。
 真ん中の所をああ今日はここん所が、新たな御理解だったと思うて頂いとればそれで信心の血肉になるし。一番最後の一口が、あれでおかげを頂いたと言う事にもなるのです。だからどうでなからんならん事はないけれども、折角ならばならここで御神意御神慮と云うものが、どこにあるか今日の御理解は親先生は、ここん所を判ってくれと言うてお伝えになったんだと言う事がね、もう本当に判ってないです。
 皆さん改めてですね、研究なさらなければいけません。だから毎日先生方が、だからですね、言うならばまあ文壇的なですね、文壇的には見事に例えば西岡先生の場合なんかは見事に表現してます。例えば今日一日の御理解をです、五つなら五つに割って、こういうことを習ったこう言う事を教えて貰ったと言う事が書いてある。なら上野先生なんかは、短文に今日の御理解からはここだったというけれども。
 結局上野先生の信心の範囲で受け止めているだけで、なら今日の御理解は、ここん所を頂かにゃいけんと、いかんじゃったじゃんねと、そうすると成る程そうですねというて、それを文章にしとりますからね。先生方に聞くと、昨日の御理解の、そりゃ解らんでも良いですけれども、頂きどころは大体神様はね、ここを判ってくれといって、焦点に於いておられたんだと言う事が分ります。だから今分からなくても、本当な事が分って、蓄積して行くと言う事は素晴らしい事です。
 こりゃ本当に早くこの様なふうにすればよかったねといっとります。昨日の御理解を例えば頂いて、昨日の、御理解の頂きどころというのを頂いて、今日の御理解を頂くと分るんです。成る程誰でも受けることが出来るなと言う事が分るです。例えばお取り次ぎを頂きます、本当に神様のお働きちゃ一分一厘間違いのない働きをうけますと、おかげを受けましたと皆さんがいうでしょう。これは善しにつけ、悪しきにつけです。
 もうすでに徳の芽が出たんです。信心の世界以外ではそう言う事の体験というものが生まれて来る筈がありません。ただふがよかったと言う事はありましょう、けれどもああお取り次ぎを頂いて、お願いをして頂いた。そしてそこにです一分一厘間違いのない神様の働きをキヤッチする事が出来あと言う事は、もうあなたは御神徳の芽が出たんですから、それを育てて行く、そういう一分一厘間違いのない働きの中に日々信心の稽古をさして頂いて、その芽が伸びる。
 それが愈々開花と言う事になった時にですそれが、ここにあります様にみてると言う事がない、限りがないのです。そして自分にもこれが御神徳、本当に御神徳を受けて有り難い。例えば皆がそうです私は神徳家ですよと、私は神徳受けとりますそげなこつ言うものはおりはしません。どんなに受けとられてもいいえ私は不徳なものですと、こういいます。またそういう謙虚さが信心には要りますけど、もう自分の心の中のものです。
 ああ信心しよりゃこれが神徳というものだなと、自分の心の中に感じれる、だからそれを自分でひそかにひそかに育てて行かねばいけません。おかげおかげではおかげはすぐ消えます。けれども神徳を育ようと言う事になったら、楽しみが出来ます。喜が湧いて来ますもうこの神徳を涸らしちゃならんという、心が生れて参ります。是が神徳だと自分で分らなければです。
 いうなら楽しみも喜もないです。会楽に御神縁を頂いてある程しの事ならばです、必ず神様の働きちゃ素晴らしいと、もう感動せにゃおられない様な、おかげは必ず頂いてます。もうその時にはすでに御神徳の芽があなたの心の中に蒔かれた様な物です。また芽をきった様なもんです。喜びが感じれる時には、もうすでに神徳を受けたその喜びの芽が出たというときには、神徳の芽が出たんです。
 その神徳は、あの世にも持って行け、この世にも残しておけれるものであり、愈々人間の幸せの条件の、全てが足ろうて来るという程ですから、神徳を唯頂いちゃ枯らし、頂いちゃなくして行ったんでは矢張り一生でもうだつは上がらない事になる。だからこれを育てて行くということになると楽しみがわく。昨日私は此処で佐田さん達一家がお届けなさるときに、佐田さんどうですか、あな方はもう自分一人がひとりがお徳を受けよるということを感じなさるでしょう。
 いやいや佐田一家に家の徳を受けよると言う事を感じなさるでしょう。とても感じとられなければ、こげん生き生きと毎日喜び勇んでのお参りは出来はしませんよ、というたら三人ながらニヤッと笑いなさいましたよ。私は徳を受けよります。私の家には必ず徳が出来よりますとは、それは実際は言えない事です。けれども親先生が云われる通り一人一人お徳を受けよる。いや佐田の家の一家の上に家の徳というものが付きよると言う事を、日々実感しとられるです。
 だからあの楽しみがあるです、だからあの喜びがあるです、だからあのおかげが伴うてくるのです。はあ私の家はお徳を受けよりますとは言はっしやれんじゃったけど、ニヤッと笑ひなさった所は一人一人が本当に受けよると顔見合わせて、私共は神徳を受けて行きよることを感じなさっただらうと思うのです。私はまた熊谷さんにも申しました。もう本当に御神徳を受ける事が楽しうして、楽しうして堪らん。
 人間の幸福の条件の総てが足ろうて来よる所から見たっちゃ、是を御神徳と言わずに、合楽に御神縁を頂いたおかげで、この様な神徳が受けられよるとは言われませんですよやっぱりね。けれども矢張り、それを実感して居られるから、あの生き生きとしたね、それこそ喜びいっぱいの信心修行がお出来になっておられるです。そういう人はいくらもあろうと思うです合楽では。
 そこで改めて昨日の御理解は、そこん所を分らせて下さる為の御理解だった、というふうにキヤッチしてないです皆が。ですから自分の頂いて行っておるです。その御神徳の芽を愈々伸ばして行く事にならないと信心に、楽しみと喜びが伴はない様です。おかげを頂く事の有り難さそれがもうだから、これを小さくしたり無くしたりしてはいけないと思うから、いよいよ真の信心にならなければ、愈々自らの良心の道というものがです、はっきりして来るのです。
 自分の良心に引っ掛る様な生活から、言わば良心的な生活が出来る様になるのです。お道の信心はだから御神徳を頂いて行く道といううのは、自らの良心の道です。御神徳を頂くのに邪魔になる心を取り除こうとするのが楽しくなって来るです。成る程信心をすれば誰でも受ける事が出来るということになる。その後に熊谷さんがこういうことを言っとられます、親先生この頃私は、もう親先生の御健康のことさえ一生懸命でお願いしとればです、おかげを受ける事が分りました。
 自分の健康の事などは願わんでもおかげになる事が分りましたが、分った途端にまた分った事はです、親先生のどうぞ御健康をというて願いながら、自分が健康になる事の為に願っておるという様な言わばさもしい心がある事に気付かせて貰いました、と言う事で御座いました。御神徳を受けて行くとそう言う事が分って来るのです。それで私が申しました。熊谷さん、だから親先生の事も願わなければならないけれども自分自身の事も願わねばいけませんねと言う事です。
 自分自身の事も真から願わせて貰うとです、親先生の事を願うのにもう無雑なもの、もう不純なもののない親先生の事が願える事になるのです。教会大発展さえ願っとけば自分方も発展する。教会の発展を願うてさえおればよい。確かに自分方はおかげを頂くです、けれどもその中味にです、もう人の事さえ願いよれば、自分方もおかげ頂く事を、暗にさもしい心だと熊本さんは感じられた訳です。そこで私はそんなら今日からは熊谷貞代自身の事も真から願わなければいけません。
 願うと言う事になった所がもう親先生の事を願う事はもうそれこそ純心無雑、真心と言う事になって来るのです素晴しい事ですね。先日そこの合楽食堂の中村さんが、お届けをしておられてから、本当に信心ちゃ有り難かの、と言うてから二人で話した事でした。先月から長男の徹美さんが福岡から帰って来てから、本当にお母さん信心ちゃ有り難い事ばい、うちは御信心を頂いたと、言う事はもうそれこそ何よりもの事を頂いた事になるが、もう僕は思うのに本当に、僕達の様な心になれば。
 世の中がどれぐらい平和になるだらうかと、思うと雲うたそうです。私も聞かして頂いて、徹美さんほんにそうじゃのと言うて話した事です。自分が自動車にぶつけられた、何ですか一寸病院に行かんならん様になった。自動車もくずれた。所が徹美さん自身が向こうの人に相手の人にです、色々心配なさるから慰めておるです。もう出来るだけあなたの方に、責任が軽うなる様に私だん決して余分の事を言うたり普通では一万円かかったら二万円とると言う様な取らにゃそんするごたる生き方が今に世の中です。
 そんなに乱れておるです。所がそげな事じゃない、私もこの様にならなければならんと言う事は私自身も改まらなければならんし、あんたそんなに心配しなさらんで良かですよ、結構ですからと言うてあげれると言う、こう云う生き方が世の中になったら、言うなら世の中が平和になろうというのである。徹美さん自身、御神徳を受けて行きよらんと、そんな事言えも思えもしませんです、徹美さん自身が、御神徳を受けよる証拠だなとだから感じなければいけません。
 またその後にです、先日から近所に親戚のおじさんが居られます、もうろくな人じゃなかけんでどげん思うたっちゃ好きになれん。所が先日から年寄りは大切にせなければいけませんと言う時にたまたま見えた、そして親先生が例えば悪人であった、ろくな人じゃなかったという人も天地の親神様の大きなドラマの中でいうなら悪役を勤めて来た様な人だから、世のお役に立っておるのだから、大事にしなければいけないと言う御理解を頂いておったから、今日はこれに取り組もう。
 今日はこれで行こうと思うとる時に、そのおじさんが見えた訳です。そしたら今までと打って変わってね可愛らしうなった訳です、そしてえらい悔やみ話をなさるとを聞かせて頂きながらです。もう本当に有り難い信心の話をすると同時に、じっちゃん毎日夕方私方に出て来んのと、あんたが好きな酒の何本でんちゃでけんばってん、一本宛位なら肴をつけちから、出してやると自分が云ひよったらもう、自分自身が感動して涙がぼろぼろ流れたとこういう。おじいさんも涙を流して、喜ばっしやったと。
 なんと素晴らしい事かね。御理解がそのまま徳になっとるです。今まで嫌いな人がね、もうそこに好きになっとるということは自分がそこに徳を受けとらにゃ出来る事じゃないてす。そのならおじいさんに、大して大きな店をしておる訳でもなければ、バサラか儲かっておる訳でもないのにです。例えば毎日出て来んの、云うなら悔やみ話があるなら聞いてやるから、出て来なさいと、あんたが好きなお酒の一本宛ても肴をつけて、余計な事は出来ないばって、それだけは私がおかげを頂くけん出て来んの。
 といいよったら自分自身の方が有り難うなって来たと。勿論それを聞いたおじいさんも涙を流して、喜ばっしやったと云うのです。そう云う世界が自分の心の中に家族の中に、私は世の中に広がって行くと言う事なんです、和賀心時代を創ると言う事は。昨日西岡先生が、一昨日の御理解の中に、久留米の今村さんが娘さんの和子さんが頂いた我れ合楽示現の使者たらんと言う事。
 私こそどうでも合楽示現の自分はその使者だと、神様から指し向けられた使者としてです、そう言うお役に立ちたいと言うお知らせを頂かれた。ああいうような心持ちにはどういう信心をさせて頂いたらなれるのだらうかと言うお伺いが御座いました。そしたらね、こう言う事を頂いた。人間喜びが高まれば、体を動かしたり叫んだりもしますという御理解でした、人間の喜びが高まって来ると体を動かす、自分でも分からん様な声を出すでしょうが。喜びが高まって来るから。
 ように信心の喜び高まって来たらです、どうかしなければおられなくなって来るのです。どうか言わねばおられなくなって来るです有り難い事を。だから西岡先生問題は自分の信心の喜びを高める為の信心が先ず出来て、そして示現活動のお役に立たして貰う事になるのですねと、言うて話した事で御座います。今日は皆さんに私は、神徳というものは誰でも受けられる。
 そして合楽にご縁を頂いとる方はまず、殆どの人が受けておると言う事です。それを枯らしたり、なくしたりして行っとるから、御神徳が育つてないのですけれども、昨日から今日の御理解を頂かして頂いてです、今徹美さんが、相手の事故を起こさした人の事を願ったり祈ったり、返ってなぐさめると言う様な在り方は、お徳を受けなければ出来る事ぢゃありません。
 お母さんが今まで嫌いじゃった人が御理解頂いてから、本当に成る程お年寄りを大事にせにゃ、もう嫌いでたまらんおじいさんがです。とにかく好きになって、それこそ晩酌の一杯宛てでも毎日出すから出て来んのと、云いたい様になって来た。御神徳を受けなければ出来る事じゃありません、だからそれを育てて行くことなんだ。佐田さんの事に於いて然り、熊谷さんに於いて然り皆さん一人一人の事を例を以て云うならば。
 皆がああ成る程親先生が云われる様に、これが御神徳だなと、皆さんが感じられる。それを唯消し足り感じたり、消したり感じたりしておるから、おかげに所謂信心が、愈々有り難いもの楽しいものになって来ないのだ。御神徳を高めて行く、愈々御神徳を育てて行くという生き方をさせて頂きゃ、成る程神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る。世まで持って行けれる。この世まで残しておけれる、そしてみてる事がないというおかげに、私共は挑戦しなければいけません
 。限りないおかげが頂ける、愈々世界に私共は住まわなければならん。それには何時も自分の心を見つめて、自からの良心の道を愈々進まして貰って、金光教の信心をするものは総て、合楽に御神縁を頂いておるものは全て、御神徳を受けさして頂く為に、信心の稽古をしておると言う様な楽しうして楽しうして、有り難うして有り難うして、という信心を、愈々身につけて行きたいですね。
   どうぞ。